__ | Wernher Von Braun | __ |
ウェルナー・フォン・ブラウン (Wernher Von Braun) 博士は、1912年3月23日にプロシアのウイルジッツに男爵家の息子として生まれた。学生の頃から数学と天文学が得意で、シャルロッテンブルグ工科大学 (ベルリン) では大学生であると同時に機械工場の実習生も兼ねた。もちろんロケットマニアだった。 1923年に、ワルター・ドルンベルガー (ドイツ陸軍兵器局の液体ロケット研究班班長) に見出されて同班の研究員となる。フォン・ブラウン 20歳の時である。 その後、1934年に A-2ロケット の飛行を成功させ、1942年にはジャイロ (自動操縦装置) を組み込んだ A-4、つまり V-2号ロケット の飛行を成功させる。 第二次世界大戦後は150人の仲間と共にアメリカに移り、V-2号をベースにしたレッドストーンロケットを開発してエクスプローラー1号 (アメリカ初の人工衛星) を打ち上げる。当時の彼の本職はミサイルの開発だったが、温め続けた宇宙への情熱が後に サターン・ロケット を誕生させることになる。アポロ計画は、すなわちフォン・ブラウンの夢の具現化だったのだろう。 一時期のフォン・ブラウンは確かにカリスマ的存在であった。ロケット・エンジニアとして その技術力や知識が卓越していたのは当然だが、さらに、人格的にも特筆すべきものがあったからである。誠実であり、並外れた倫理観と正義感を持ち合わせ、研究・開発チームをまとめる指導力にも優れていた。家族 (妻のマリアと3人の子供) を愛し、マリンスポーツを楽しみ、音楽に耳を傾け、夢を語り、大胆な発想で数々のアイデアを生み出すが、その反面、あわれみ深く、人間の尊厳というものを大切にする人物でもあったのだ。彼のことを下世話な言い方で 「NASAのスポークスマン」 とか 「NASAの広報マン」 と言うこともあるが、これら行動も彼の宇宙開発への夢や情熱から出たものなのだろう。 そんな彼は、芸術や宗教に対しても誠実だった。 科学と信仰を両立すべく悩んだりもしたが、ついに彼独自の理解に至る。両者はアプローチの仕方が異なるだけなのだ、、、 1977年6月16日、フォン・ブラウンは その偉大な生涯を閉じた。「無駄な時間」というものを嫌悪していた彼にとって その生涯は短かったのか長かったのか。 憧れ続けた金星への旅はついに実現しなかった。- - - - - フォン・ブラウン博士に 「2001年宇宙の旅」 のフロイド博士 をイメージするのは筆者だけだろうか。 |